大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和60年(う)1391号 判決

所論は要するに,原判決が被告人の本件所為につき正当防衛の成立を認めなかつたのは,刑法36条1項にいう侵害の急迫性についての解釈を誤つたもので,この誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである,というのである。

しかし,原審で取調べた証拠によれば,原判決が本件につき正当防衛の成立を否定した結論は正当であり,所論にかんがみ記録を精査し検討してみても,原判決に所論のような法令適用の誤りがあるものとは認められない。

すなわち,本件の証拠によると,被告人は,病弱の父親から家業の露天商を継いだ八歳年長の実兄A男の仕事を手伝つていたものであるがA男は気性が荒く,短気な一面があり,被告人の仕事ぶりや態度が気に入らないと,被告人を口汚く罵倒したり,更には木刀や棒切れなどで容赦なく被告人を殴打したりしたこともあつたうえ,被告人が昭和55年11月に覚せい剤事犯で執行猶予の判決を受けてからは,被告人の夜間の外出を差し止めるなど,父親ともども,被告人の行動についても監視の目を光らせていたもので,被告人はこのようなA男の仕打ちや態度に反発や重圧を感じながらも,親代りともいうべき同人に強く反抗することができず,次第に憤まんの念を募らせていたこと,右の折柄の昭和56年4月1日夕刻,被告人は当日の仕事を終えてA男とともに帰宅したが,同人が原判示のアパートの自室に引き揚げた後の午後8時ころから,父親の不在をさいわい,来合わせた知人らとともに飲酒し,自らもビール大びん2,3本を飲んだうえ,午後9時ころ外出し,原判示の喫茶店「ぐつぴー」に赴いて,同店でビール大びん1,2本を飲み,更に午後11時ころ,原判示のスナツク「琥珀」に立ち寄り,同店でもウイスキーの水割り3杯位を飲んだこと,ところがそのうち,被告人は同店がA男の行きつけの店であることを思い出し,同人が来店すれば,同人から自己の夜遊びを強く叱責されるのではないかと不安になり,店主のB男にA男の来店の予定を尋ねたところ,右B男が早速A男方に電話し,被告人が来店していることまで告げて,その居場所をA男に知らせる結果となつたため,被告人は激怒し,ウイスキーのグラスを叩き割るなどして店内で暴れたこと,その直後,今度はA男の方から同店に電話が入り,これに対する前記B男の応待ぶりから,被告人が同店に迷惑をかけているのではないかと察知したA男から,代つて電話口に出た被告人が「馬鹿野郎,そこで何やつてるんだ。すぐに行くから待つてろ。」などと怒鳴りつけられたため,被告人はこれまでの経験上,A男からまた殴打されるのではないかと感じとり,一旦は自宅に逃げ帰つたが,このままでは事は治まらず,必ずやA男によつて捜し出されたうえ,同人から従前のように木刀や棒切れなどで手ひどく殴打されるといつた事態は避けられないと思うに至り,酒の酔いも手伝つて,A男に対する日頃の憤まんの念がこみあげるとともに,気も大きくなつて,いつまでも逃げてはいないで,今日はA男に堂々と立ち向かい,同人が殴りかかつてくれば,やつつけてやつて自分にも度胸のあるところを思い知らせてやろうと決意し,右の木刀などに対抗するに足る道具として,自宅六畳の間の仏壇の上から,原判示の出刃包丁等の刃物類の入つた箱2,3点を持ち出して自宅を出,途中右出刃包丁のみを選んで,他の物は捨て去り,同包丁をズボンの後ろの腰ゴムに抜き身のままはさみ,いつでも敏速にこれを取り出せる形にして,A男から待つように言われた前記「琥珀」の方に向かつたこと,そして翌2日午前0時ころ,被告人は同店前付近に着いたが,まだA男は来ていなかつたので,路上で同人を待ち受けるうち,同店のはすかいにある原判示のクラブ「紫」の従業員に,タクシーの運転手と間違えられて店内に呼び込まれ,その際顔見知りのバーテンC男に対し「兄貴をやつてやるんだ。」などと口走つて,同人らに前記出刃包丁を示し,右C男からその短慮をたしなめられたのに,被告人の決意は変らず,なおも同店前付近の路上で,A男の到来を待ち受けていたこと,一方A男は前記の電話後,まもなく前記「琥珀」に自動車で向かつたが,途中道筋にあたる被告人の自宅に立ち寄つたところ,母親や妹から被告人が刃物らしき物を持つて出て行つたことを聞かされて,これまた大いに憤慨し,母親らの制止も聞かず,同家にあつた木刀1本(長さ約102センチメートル)を持ち出したうえ,右の車で「琥珀」に向け出発したこと,そして午前0時10分ころ,A男は前記「紫」前付近路上に到着したが,同人を待ち受けていた被告人が,これを認めてA男に立ち向うべく,直ちにその停車した車の方に近寄つて行つたところ,下車して来た同人から,機先を制して,いきなり前記木刀で額や側頭部を2回連打され,これにより路上に転倒したところを,更に体を覆いかぶせるようにして同木刀で殴打されるに至つて,憤激のきわみ,とつさに殺意を生じ,上体を起こしながら,前記出刃包丁を右手で取り出し逆手に持つて,直ちに反撃に及び,A男の腹部,胸部,背部等を数回強く突き刺し,起き上がつて逃げる同人になおも追い撃ちをかけるべく,その後を追つて同人が逃げ込んだ先の前記「琥珀」の出入口のドアガラスを叩き割つたりしたこと,なおA男は同日午前2時25分ころ原判示の病院において,背部刺創による右肺損傷及び失血により死亡したこと,以上の諸事実を認めることができ,この認定を左右するに足る証拠はない。

右認定の一連の経過事実によれば,A男が被告人を木刀で殴打した所為が,被告人の身体に対する不正の侵害にあたることはいうまでもないが,被告人は右の侵害を受けることを当然もしくは高度に確実なものとして予想し,単なる防衛の意図ではなく,その機会に乗じて,積極的な闘争,攻撃,加害の行為に出る意図に基づき,そのための十分な用意を整えたうえで,当該侵害に臨んだものと認められるから,右の侵害は被告人にとつて急迫なものでなかつたことが明らかであり,従つて被告人の本件所為につき正当防衛の成立を認め得る余地はないものといわねばならない。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!